うたを うたう ときわたしは からだを ぬぎます
だなんて詩があるけれど、僕はそうも言っていられなかった。(ちなみにこの詩は、まど・みちおさんの詩で、女声合唱の曲なので僕は歌ったことがない)
先日、Lux Voluntatisという合唱団でリモート合唱を行った。
首謀者の三好草平さんと森山至貴さんが新しく企んだ試みである。
「各自録音して提出、なんて合唱はつまんないよね(意訳)」という趣旨に賛同した猛者が13人。不吉な数である。ちなみにLVには猛者しかいない。モササウルス合唱団である。違うか。
演奏動画はこちら。
https://m.youtube.com/watch?v=6et6_YLgf18
森山先生はこの曲を、音ズレ上等、遅延覚悟で記譜してある。
そんな森山先生のnoteがこちら。
https://note.com/morinsmusic/n/nc1bcadff1e53
本作品は、zoom合唱ならではというか、視覚効果にも拘っている。
本詩は「うたのなか」に存在している「はな」「ひと」「そら」について書かれており、「はな」について歌っている箇所は「はな」を、「ひと」について歌っている箇所は「ひと」を、「そら」について歌っている箇所は「ひと」を、それぞれプロフィール画像、カメラに映る歌い手自身、そしてカメラを覆いバーチャル背景として捉えられ映される背景画像を使い、詩の内容を視覚的に表現している。だなんて解説は野暮か。
本詩における「うたのなかの〇〇」とは、どういう立ち位置にあるものだろう。
各節の一行目で、「うたのなかのはなはかれない」「ひとはしなない」と一見ポジティブに捉えられる言葉を使いつつも、残りの三行を読むと「うそのきわみ」「くちるにまかす」などネガティブな要素を告げている。「永遠の命であるが故に、それは空虚であり幻影に過ぎない」と言っている(ように僕は感じた)。
それを歌で表現しようとするのだから、合唱というものは意味がわからない。だから好きなんだけれど。
ある種の自己矛盾を孕んだ楽曲である。
この楽曲を演奏するにあたって、そもそもzoomというツールでこの曲を演奏することが可能なのかをテストした。
その後、一度リハーサルのため集まって、そして翌週に本番を収録。合唱の練習としては(少なくとも僕の経験上は)かなり短いスパンで発表まで至った作品になる。
リハーサルや本番では、普段使い慣れていない人がいることもあり、ビデオ機能のオンオフ、背景の変更などで失敗することがあった。僕自身、別にテレワークしているわけではないし、zoom自体使い慣れていない勢の一人だ。ミスもした。
ここで重要なのは、当初の目的を見失ってはいないのか、というところである。
その目的とはなにか。
「合唱」だ。
いくら仕掛けを施しても、根底にあるのは音楽であり合唱だ。
聞こえてくる音、聞こえるはずの音、聞こえてほしい音。
鳴っている音、鳴っているはずの音、鳴っていてほしい音。
いま、誰かが歌っている歌。いま、自分が歌っている歌。
それらが合わさり、合唱となっていくその瞬間の風景。
「各自録音してきたものを合わせる」だけでは得られない、zoomという仮想空間上の音楽。
そこで、いま、音楽している。合唱しているのだ。僕は。
うたを うたう ときわたしは からだを ぬぎます
楽譜の指示に従ってパソコンを操作しながらだったから、からだをぬぐことは出来なかったけど。
からだを ぬいでこころ ひとつに なります
ひとつのこころが、
ほかのひとつのこころとあわさって、
13のひとつのこころとあわさって、
合唱になったのだ。
確かに。どこにもない場所で。
ではまたあした。