ぽろぽろこぼれる

888企劃主宰・馬原颯貴からぽろぽろこぼれる言葉を記録する。

うたのなか にいた うたうたい。


うたを うたう とき

わたしは からだを ぬぎます

 


だなんて詩があるけれど、僕はそうも言っていられなかった。(ちなみにこの詩は、まど・みちおさんの詩で、女声合唱の曲なので僕は歌ったことがない)

 


先日、Lux Voluntatisという合唱団でリモート合唱を行った。

首謀者の三好草平さんと森山至貴さんが新しく企んだ試みである。

「各自録音して提出、なんて合唱はつまんないよね(意訳)」という趣旨に賛同した猛者が13人。不吉な数である。ちなみにLVには猛者しかいない。モササウルス合唱団である。違うか。

 


演奏動画はこちら。

 


https://m.youtube.com/watch?v=6et6_YLgf18

 


森山先生はこの曲を、音ズレ上等、遅延覚悟で記譜してある。

 

そんな森山先生のnoteがこちら。

https://note.com/morinsmusic/n/nc1bcadff1e53

 

本作品は、zoom合唱ならではというか、視覚効果にも拘っている。

本詩は「うたのなか」に存在している「はな」「ひと」「そら」について書かれており、「はな」について歌っている箇所は「はな」を、「ひと」について歌っている箇所は「ひと」を、「そら」について歌っている箇所は「ひと」を、それぞれプロフィール画像、カメラに映る歌い手自身、そしてカメラを覆いバーチャル背景として捉えられ映される背景画像を使い、詩の内容を視覚的に表現している。だなんて解説は野暮か。

 


本詩における「うたのなかの〇〇」とは、どういう立ち位置にあるものだろう。

各節の一行目で、「うたのなかのはなはかれない」「ひとはしなない」と一見ポジティブに捉えられる言葉を使いつつも、残りの三行を読むと「うそのきわみ」「くちるにまかす」などネガティブな要素を告げている。「永遠の命であるが故に、それは空虚であり幻影に過ぎない」と言っている(ように僕は感じた)。

それを歌で表現しようとするのだから、合唱というものは意味がわからない。だから好きなんだけれど。

ある種の自己矛盾を孕んだ楽曲である。

 


この楽曲を演奏するにあたって、そもそもzoomというツールでこの曲を演奏することが可能なのかをテストした。

その後、一度リハーサルのため集まって、そして翌週に本番を収録。合唱の練習としては(少なくとも僕の経験上は)かなり短いスパンで発表まで至った作品になる。

 


リハーサルや本番では、普段使い慣れていない人がいることもあり、ビデオ機能のオンオフ、背景の変更などで失敗することがあった。僕自身、別にテレワークしているわけではないし、zoom自体使い慣れていない勢の一人だ。ミスもした。

 


ここで重要なのは、当初の目的を見失ってはいないのか、というところである。

その目的とはなにか。

「合唱」だ。

いくら仕掛けを施しても、根底にあるのは音楽であり合唱だ。

 


聞こえてくる音、聞こえるはずの音、聞こえてほしい音。

鳴っている音、鳴っているはずの音、鳴っていてほしい音。

いま、誰かが歌っている歌。いま、自分が歌っている歌。

それらが合わさり、合唱となっていくその瞬間の風景。

「各自録音してきたものを合わせる」だけでは得られない、zoomという仮想空間上の音楽。

そこで、いま、音楽している。合唱しているのだ。僕は。

 

 

 

 


うたを うたう とき

わたしは からだを ぬぎます

 


楽譜の指示に従ってパソコンを操作しながらだったから、からだをぬぐことは出来なかったけど。

 


からだを ぬいで

こころ ひとつに なります

 


ひとつのこころが、

ほかのひとつのこころとあわさって、

 


13のひとつのこころとあわさって、

合唱になったのだ。

確かに。どこにもない場所で。

 

 

 

ではまたあした。