スーツ(Suits)には訴訟の意味もあるけどその話ではない。
日本版リメイクのドラマ「スーツ」の話でもない。アレはやばかった。
「ヒーロースーツ」とか言うよね。
僕は「あることのために身に纏うもの」という意味もあると考えてる。
スパイが来てるなんかピチッとしたやつとか。「コスチューム」とも言えるかもしれない。
2019年8月から、僕は「あいちトリエンナーレ」に《ロミオ》の一人として参加した。
《ロミオ》というのは、簡単に言えば美術館の中でイケメン男子が優しく話しかけてくる、というドラ・ガルシアの作品だ。
そのこと自体は入り口に貼られたポスターで告知され、いつどこにいるかわからない《ロミオ》たちを探すというワクワク感も味わえる。
《ロミオ》にはドレスコードがあり、「セミフォーマル」と指定されていた。
そのドレスコードに則ってスーツを何着か新調して、ほとんど毎日、週5くらいで《ロミオ》活動をしていた。
周りの《ロミオ》たちは、作家のドラ・ガルシア氏が言ったこともあってスーツを着ている人はいなかった。「スタイリッシュに見えればいい」「カッコよければ」みたいな指示だった。
僕はスーツを着続けた。
打ち上げの際、サエボーグさんとお話する機会があった。
彼女の公演は、まあ検索して貰えばわかることだけど、ラテックスのボディスーツを着てパフォーマンスするというもの。登場人物は一様に動物や農婦の姿をしている。が、ゴム製である。
こんな感じ。なんかヤバいシーンの画像を引っ張ってきてしまった。
曰く、「女性の体であることを覆い隠して性別らしさをなくしたい」というようなことらしい。中にいるダンサーは全員女性だ。
(ちなみに《ロミオ》が人と話した内容は口外しないという契約を結んだが、これは打ち上げの話であり業務外の時間のことなので許される……はず)
サエさんと話して、僕は自分がスーツを着続けた意味がわかった気がした。
僕は彼女らのようにスーツを纏っていたのだ。
さっき説明したように、《ロミオ》は「イケメン男子」という括りをされる。僕はイケメンではないと思っている。そんなに自己肯定感が高い人間ではないのだ。
だが、「スーツ」を着ていれば、顔はそれほどじゃなくても、カッコよく見える。とりあえずの、急場しのぎの清潔感は出る。自分自身を隠して、印象を塗り替えるための「スーツ」なのた。僕はそれを身に纏っていたのだ。
このことに気づいた時、あまりの自尊心のなさにちょっと絶望した。あのスーツは、自虐的スーツだったのだ。
何日か前のブログにも書いた、和服を着る理由も、これに準ずることだろう。
服はコスチュームなのだ。本当の自分自身を偽るペルソナだ。
でも、だからといって、悲しむ必要はない。
スーツを、和服を着ている僕はイケメンなのだから。(は?)
ではまたあした。