888企劃プロデュース公演vol.3
「生きてるものはいないのか」
とりあえず公演は無事終演して、いつもみたくあとがきのようなものをつらつらと書いていきたい。
2007年。
スマートフォンもタブレットも普及しておらず、インナーカラーも鬼滅の刃も新型コロナウイルスも存在せず。
初音ミクが誕生してハリーポッターは不死鳥の騎士団が映画化して、「ハニカミ王子」「そんなの関係ねぇ」が流行語で、倖田來未と浜崎あゆみがオリコン上位で、「千の風になって」が大ヒット。
「その頃」を思い返すということに、どういう意味があるだろうか。
古代ローマだったり、戦国時代だったり、中世ヨーロッパだったり、第二次世界大戦中だったり、前回の東京オリンピックだったりを思い返すことと、差はあるのか。
今、世界は技術革新の真っ只中で、思い返せば10年前よりも遥かに未来に来ている気がするのだ。20年前から見た10年前よりも。
「生きてるものはいないのか」。
この舞台は2007年に五反田団により上演され岸田國士戯曲賞を受賞した、前田司郎氏の名作である。僕が初めて見たのは、20歳になったかならなかったかくらいだ。
当然ながら、この戯曲は時代劇として書かれたものではない。れっきとした現代劇だった。
しかし時が流れると、現代劇は時代劇に変貌する。
今が過去になる瞬間、現代劇が時代劇になる瞬間。
それがいま、2020年という記号である。
と、いうわけでこの作品は時代劇として演出することになった。
2007年、平成19年。確かに通ってきたはずの、見過ごしてきた時代。
初めに役者に周知した演出方針は、「令和感の排除」だった。
服装はもちろん、髪型や所作、立ち方など、この13年で人間は変わってきている。進化しているのだ。それが退化なのか発達なのかはわからないけど。
そんな細かいことをああだこうだ言っても大して意味がないかもしれないけど、お客さんは全然気づかないかもしれないけど、やるのだ。
「台本に忠実になる」ということは、そういうことだ。名作には敬意を払え。
そしてそんな2007年の作品を、2020年にやることの意味。
最大の意味は、お分かりだとは思うが、新型コロナウイルスという未知のウイルスがこの世界を、この日本を襲っているからだ。
「何か」が世界中の人々を襲っているという中で、懸命に、又は淡々と生きようとする人、死んでゆく人。
例えば「咳をする人」に対する反応の一つ一つは、電車内で咳き込んでいる人を見かけた時の今の僕たちの気持ちに似ている。「それって、あれですか? うつりますか?」
ケイスケとミキのやりとりの中では、いま僕たちが強いられている、社会的、身体的距離を探っている。どれくらい近ければひとりか。どれくらい離れればひとりじゃないか。
「死」は日常の中に存在している。僕たちはそれに気付いていない。人は死ぬ。何かしても、何もしなくても死ぬ。今も、どこかで誰かが死んでいる。何かで、あるいは何でもなく、理由なく。突拍子もなく人は死ぬ。他殺で、事故で、あるいは自殺で。大事な人も、嫌いな人も、どうでもいい人も、知らない人も、みんな死ぬ。死ぬのはいつも他人ばかりで、自分自身といえば、死ぬまでは生きている。だだ生きているのか、死んでいないだけなのか、どちらでもないのか。舞台上の境界が曖昧になりながら、「ひとり」と「ひとりじゃない」距離が曖昧になりながら、自分と他人の区別が曖昧になりながら、生と死の境界が曖昧にならないとは限らない。フェードアウトか、カットアウトか。死というものを僕たちは知らない。どんな状態なのか体験していない。だから死の原因だって曖昧でいいし、理由なんてない。死は高次元の行為なのだ。僕たちにはそれは観測できない。する術がない。
だから、どうするのか。何をすればいいのか。
生きればいい。死ぬまで生きればいい。
君たちは生きているのか。死んでいるのか。生きかけているのか。死にかけているのか。
生きるという行為を僕たちはしているのか。
この世界で、日本で。
きちんと、しっかり、精一杯、誠心誠意、
生きてるものはいないのか。
そんな疑問を投げかける作品にしたかった。
本作の上演を許可していただいた五反田団様、前田司郎様。本当にありがとうございました。
出演してくれた役者のみなさん。長い間に死にっぱなしなのは本当に辛かろう。僕にはできない苦労をいっぱいしてくれました。ありがとうございました。
スタッフのみなさん、コロナ禍で色々気を使うことばかりだったろうに、体調を崩すことなく無事にやり遂げてくださって、ありがとうございました。
そしてお客様。
劇場でも配信でも、想像していなかったほど多くのご観劇、本当にありがとうございました。
次の活動がいつになるかはわかりませんが、また見てくださると嬉しいです。
たくさんの感謝を。
ありがとう。
生きろー。
ではまたあした。